セッションの原点について〜心理学的アプローチと瞑想的アプローチの違い〜

書籍やインターネット上の情報を通じて
自身の内面や心の課題に取り組んでいる方は多いと思いますが、

私自身、最初に自分の内面に関心を持つきっかけとなったのは

島田明徳さんという武術家の方の
「気の輝きに包まれてー仙道修行者の覚醒への記録(現代のさとり体験シリーズ)」
という本がきっかけでした。

当時30歳だった私は、社会人生活の挫折から引きこもりのような生活を送っており、
自分を変えるものがないかと心理学や自己啓発と呼ばれるジャンルを中心に様々な本を読みあさっていました。

「気の輝きに包まれて」では、著者である島田さん自身が、不思議な縁に導かれ、中国武術の達人でもある仙道の師とめぐり逢い、ひたむきに気功修練を重ねるうちに数々の内的体験を経て覚醒に至るまでの道のりがわかりやすく、かつ控えめな筆致で描かれています。

仙道修行者ではない私はその深い内容についてはよく理解できなかったものの、
自分自身の内面への探求という、それまでの人生に無かった新たな扉を開いてくれるきっかけとなりました。

ちなみに、この本には島田さんが様々な神秘体験と共に内面への気付きや悟りを得る瞬間が描かれているのですが、
その多くを私自身も、のちに出会うことになる瞑想の実践を通じて体験することになりました。

そうした後で本を読み返してみると、
以前にはわからなかった深い内容まで共感を持って読むことができ、
その内容が嘘や誇張で書かれたものではないことが改めてわかりました。

さて、「気の輝きに包まれて」を読み、深い感銘を受けた私ですが、
気功修練には走らず、瞑想に関心を持つようになりました。

仙道の修練は深い山中などの自然の中で長期間に渡って非常に根気づよく修練しなければならないイメージがあり、
当時の私には経済的・環境的に容易ではないと思われたこと、
どうやって信頼に足る師を探せばよいのか皆目見当がつかなかったこと、

また、同書の中で紹介されていた精宮瞑想という瞑想法が印象的で、
仙道も気功的な修練の先に最終的には瞑想に行き着くのではないか?と私は考えたのです。

さらに言えば、島田明徳さんはもともと武術家で、
武術修行の一環として気功修練に打ち込み、結果、覚醒に至ったわけですが、
私は武術という形ではなく、より直接的に自分の心にアプローチしたいという思いがありました。

それは、自分の心に関する以下のような洞察がきっかけでした。

自分が嬉しい時、誰の心が嬉しいのだろう?

言うまでもなく自分の心ですね。

自分が悲しい時、誰の心が悲しいのだろう?

それも自分の心です。

では、嬉しい、悲しいという心がどのように生まれるのかを観察してみると

「自分に都合の良いことがある時は嬉しく、自分に都合の悪いことがある時は悲しい」

という事実に気づきます。

それでは、自分に都合の良いこと、悪いことというものがどこから来るのかを見てみると、
都合の良いことも悪いことも自分の外部から来ていることがわかります。

意中の人と付き合いたい。

でもそれが成就するかどうかを決めるのは最終的には自分ではなく相手です。

自分が望む会社に就職したい。

でもそれが叶うかどうかを決めるのは最終的には自分ではなく会社の採用担当者です。

自分はいつまでも健康で長生きしたい。

でもある日事故に遭うかもしれず、事件に巻き込まれるかもしれず、
どれだけ健康的な生活をしていても病気になるかもしれません。

このように自分の心のありようを振り返ってみると、
自分の幸不幸というものが、あまりにも外部の条件や環境に依存していることがわかります。

このことに気付いた時、

「このままだと私は一生、自分の幸せを自分で選ぶことはできず、
外部の条件に一喜一憂する心の奴隷として生きるしかない」

という絶望的な気持ちになったのです。

そして、引きこもり生活のさなか私は心からこう思ったのでした。

「自分の心から自由になりたい」

「外部の条件に左右されず、たとえ不幸な出来事があったとしても、それに感謝できる自分になりたい」

そのためには今の自分の心には修練が必要だ、
そのために瞑想を通して利己的な心を何とかできる場所を探そう!と思ったのでした。

そうしてウェブサイトを検索するとあるホームページに出会いました。

そこには「心を捨てる瞑想」と書いてありました。

それまでもいくつか瞑想を探してみたことはありました。

しかし、目についたのは健康法やストレス解消法としてのソフトなものか、
さもなければ「あなたの守護霊がわかる」とか「超能力が身につく」
といった荒唐無稽なオカルトチックな内容のものしかありませんでした。

でもその日、目にしたホームページには、
自分の心があらゆる問題を作り出していること、
心を手放せば自分の心にとらわれずに生きられるようになることなどがわかりやすく説明されていて
まさしく自分が求めていた内容がそのままに記載されていました。

ホームページの作りも素朴な感じで
(あとで聞いたところによると、パソコン素人の方がホームページビルダーで悪戦苦闘しながら手作りで作ったとのこと)、

そこに載っている経験者の体験談もごく自然な内面の変化をつづってあり好感の持てるものでした。

そうして始めた瞑想でしたが、
最初は自分がうまく瞑想ができているのかどうか全く実感がなく、手ごたえを感じられない日々が長く続きました。

また、その中でも他人と自分を比べて
「自分はまだ何も掴めていない」
「他の人よりも自分のほうが遅れている」といった焦りを感じたりと、
自分の心から自由になりたいと思って始めたはずなのに
いつの間にか自分の心のパターンにはまり込みながら苦しむ日々が続きました。   

そんな中、ある時、印象深い出来事がありました。

瞑想センターに行く途中、コンビニに立ち寄り、商品を持ってレジに向かった私は

たったいま会計を終えた女性がレジのテーブルに雑誌を置き忘れていることに気が付きました。

私はその雑誌を取るとすぐに女性を追いかけ

「忘れ物ですよ」と

声を掛けて雑誌を差し出しました。

すると、

その女性は振り向きざまに雑誌をひったくるように受け取り

礼も言わずに立ち去っていきました。

私はその態度にショックを受け、センターに向かう道すがら怒りが収まりませんでした。

センターに着き、心を落ち着かせようとさっそく瞑想を始めました。

当然さきほどの出来事が頭に浮かんできます。

瞑想を通して改めてその出来事を眺めてみると

「あっ」と驚きました。

そのとき私は、自分がなぜその女性に雑誌を手渡そうと思ったのか、
なぜ怒りがこみ上げてきたのかがはっきりとわかったからです。

私は、自分は善意からその女性に忘れ物を渡そうとしていたのだと思っていましたが、
実際はそうではありませんでした。

私は、忘れ物を相手に手渡すことで相手に感謝してもらいたかったのです。

そうして「自分は善良な人間なのだ」というセルフイメージを確認したかっただけなのでした。

相手はいわば自分の気持ちを満たすための道具であり、手段でしかなかったのです。

私は相手の存在を利用して自分のセルフイメージを高めたかっただけであり、
それがうまくいかなかったことにショックを受け、怒りを覚えていたということに気付きました。

その瞬間、女性に対する怒りは感謝の気持ちに変わりました。

自分の間違いに気付かせてくれたことに対する感謝です。

もし自分の間違いに気付かないままだったら、

私はこの出来事を脳内で何度となく再生し、そのたびに怒りを覚え、自分にストレスを与え続けたことでしょう。

さらには
「この前こんな嫌なことがあった!」と家族や友人に怒りをぶちまけ、
自分だけでなく、周囲の人々の気分も害していたことでしょう。

この日わたしは

自分の正しさを教えてくれることよりも

自分の間違いに気付かせてくれることの有難さを知りました。

そして瞑想と出会えた幸運に心から感謝したのでした。

もしも自分の間違いを他人から指摘されていたら、

私は猛然と反発したでしょうし、納得できなかったことでしょう。

瞑想を通じて自分の内面と向き合う中で

その気づきが自然と起こり、心から納得ができたのです。

日常のほんのささいな出来事ではありましたが、瞑想の力を実感する出来事でした。

以降、少しずつではありますが、人生で取りためた様々な心を手放していく過程で
自己の内面に関するいろいろな発見をするようになり、

同時に、自分が抱えていたストレスや、
もやのように常にまとわりついていた正体不明の不快な感情の数々が解消されていきました。

さらに、瞑想を始めて3ヶ月以上たったある日、私は本来の自分を悟ることになりました。

「自分は存在したことがなかった」という気づきと共に。

その瞬間、

それまで何者かになろうと努力し、他人と自分を比べながら嫉妬し、恨み、
劣等感に苦しんできたそれまでの人生で
「自分にはこれが足りない」
「あれが必要」
とひたすらにヨロイの上にヨロイを着こみ、重たい武器を握りしめ、
そうして自分は身動きが取れなくなっていたことに気付きました。

そうして生きてきた人生も自分自身という存在も、
すべてがフィクションに過ぎず、
自分はそもそも何者でもなかったことに気付いた時の解放感は言葉にできないほどの衝撃と喜びでした。

以降、私は、瞑想を通じて「心とは何か」「本当の自分とは何か」という探究を深めていくことになります。

(本当は、私自身の瞑想歴についてもっと詳しく書きたいところなのですが、かなり長くなってしまうので、今回はここまでにしたいと思います。)

少しだけ付け加えると、
心に対して、一般的な心理学的アプローチと、瞑想やスピリチュアルなアプローチには根本的な違いがあります。

心理学は、
「心」というものが実体として“ある”という前提で、
それを癒したり、修正したり、強化したりすることを目指します。

一方、瞑想やスピリチュアルな道では、
心そのものが「実体を持たない幻想である」という前提のもと、
そのことに自ら気づくことをゴールにしているのが大きな特徴です。

つまり、

  • 心を「修正」することを目指すのが心理学
  • 心を「超える」ことを目指すのがスピリチュアルなアプローチ

    と言えます。

しかし、「心を癒す」ことと「心を超える」こと、
この二つの道は決して矛盾するものではありません。

むしろお互いを補い合う関係にあります。

たとえば──
私たちが深く傷ついているとき、
「心なんて幻想だ」「それは無いものだ」などと言われても、
それは単なる理屈にしか聞こえないでしょう。

まずはその痛みを認め、受け止め、癒していくことが必要です。
傷ついた心を丁寧に抱きしめることで、はじめてその奥にある静けさに触れる土台が築かれます。

逆に、心を癒そうとするだけでは、
いつまでも「もっと癒されなければ」という終わりのない探求に迷い込んでしまうこともあります。

そんなとき、「そもそも心とは実体を持たないものだ」という気づきが、
苦しみを根本から手放す大きな助けになるのです。

そのため、ニューアルケミーのセッションは、
まずは心理学的なアプローチで自己理解を深めるところからスタートし、
やがて自然な流れの中で、思考を超えた静けさへと導かれることを目指します。

単なる「問題解決」や「心の強化」だけでは満たされず、
もっと深いレベルで自由を求めている方、
既存の心理学的アプローチにどこか限界を感じている方には、
ニューアルケミーのセッションはきっと新鮮に映ると思います。

──もし今、
「知識や努力では埋まらない、もっと深い何かを求めている」
「頭ではわかっているけれど、心がついていかない」
そんな思いを抱えている方がいたら、
きっとこのプロセスは大きな助けになるはずです。

セッションに関する具体的な情報はこちら

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