自由に条件は必要ない
私たちはよく、「自由になりたい」「もっと深い愛を感じたい」「平和を見つけたい」と願います。
そしてそのために、瞑想をしたり、特定の教えや考え方を学んだり、心の癒しを求めたりします。
かつての私も、そうした道を歩んでいました。
「意識を高めれば、自由が訪れる」
「内面のトラウマをすべて癒せば、愛に目覚める」
そんな“条件を満たせば解放される”というストーリーを、ずっと信じていました。
けれど、あるときふと気づいたのです。
「無条件の自由」や「無償の愛」に触れるために“条件”が必要だというのは、そもそも矛盾ではないか?
本来、「無条件」とは、
- 特別な何かをしなくても
- 深く癒されていなくても
- 高次の誰かに出会わなくても
あらゆる人にすでに開かれているものであるはずです。
だとすれば、
「そこに至るための条件」や「特別な資格」は本質的に必要ない。
瞑想を何年もする必要もなければ、特別な誰かの力に触れる必要もなければ、
こことは別の場所に行く必要もないはずです。

J・クリシュナムルティ
Image credit: J. Krishnamurti, ca. 1920s, George Grantham Bain Collection, Library of Congress – Public Domain via Wikimedia Commons
ここで私は、J・クリシュナムルティの「真理は道なき土地である(Truth is a pathless land)」という言葉を思い出します。
一見すると、この言葉は「誰も真理に到達することはできない」という否定的な意味に解釈されがちかもしれません。
しかし、私の理解ではこの言葉はむしろ、
「真理は今この瞬間あらゆる人に完全に開かれている」
というシンプルな事実を指し示しています。
もし真理という土地に至る“道”があるとするのなら、そこには“その道を行ける者”と“行けない者”が必然的に生まれます。
- 善行を積んだ者は行け、悪行を繰り返した者は行けない
- 貧しい者は行け、富める者は行けない
- 厳しい修練に耐えた者は行け、自堕落な者は行けない
- 神を信じる者は行け、神を信じない者は行けない
そういった“条件”がある限り、それはもはや無条件ではなくなってしまいます。
しかし実際に真理は完全に無条件です。
であるからこそ、そこに至る道はない(特定の道があると信じることはむしろ真理の本質を忘れてしまうことになる)とクリシュナムルティは言ったのです。少なくとも私はそう解釈しています。
ニューアルケミーのセッションの意味──“自由になる”ではなく“自由を思い出す”
では、なぜ私がセッションをしているのか。
なぜ「何も条件はいらない」と言いながら、セッションという場があるのか?
その答えはとてもシンプルです。
ニューアルケミーのセッションは、“自由になるため”のものではありません。
“もうすでに自由だった”ということを、自然に思い出すためのものです。
私たちはすでに、
何かを“する前”から、
何者かに“なる前”から、
自由そのものとして存在しています。
でも、私たちは生きる中でその事実をつい忘れてしまう。
条件づけられた自己像や、理想のスピリチュアル像に縛られてしまうことがある。
そのとき、「もう何も探さなくていい」「今のままで十分だったんだ」と静かに気づく時間を分かち合いたいと思うのです。
セッションで大切にしていること──変わらなくてもいいという安心
ニューアルケミーのセッションでは、
“変わること”を目的としません。
何かを「得よう」としなくてもいい。
何かを「直そう」としなくてもいい。
今とは別の所に「向かおう」としなくてもいい。
“そのままのあなた”が、そのまま在ること。
そのこと自体が、静かな奇跡です。
無条件の愛と自由を思い出すために──
私たちが求める自由や愛、平和は、いつでも今ここにあります。
そのことを、“教え”ではなく、
空間や静けさ、対話を通して思い出していただけたら。
私自身も、何かを“伝える”というより、
ただともに在りたいと思っています。
条件のない自由を思い出す時間をご一緒できたらと思います。