年齢も職業も様々な人々が訪れる瞑想センターで講師をしていた頃、
私は「すべての人を受け入れるべきだ」という理想を信じて、
なんとかその通りに生きようと努力していました。
でも実際は、どうしても相容れない価値観を持つ人もいて、
他者を受け入れられない自分を責めてばかりでした。
当時はどのようにして他者を受け入れるかに悩んでいた時期でした。
でも、今ならわかります。
その時の私に必要だったのは、誰かを無理に受け入れようとすることではなく、
「受け入れられない自分」をこそ、受け入れることだったということが。
私たちは、心というフィルターを通して世界を見ています。
そのフィルターがどんな色をしているかによって、
同じ出来事でもまったく違う感情が湧いてきます。
「この人のこういう部分がどうしても引っかかる」
人を責める気持ちの奥には、
「こうあるべきだ」「こうしなければいけない」という
自分自身への厳しさが隠れています。
その厳しさが強ければ強いほど、私たちは無意識のうちに自分にストレスとプレッシャーを与え、
他者への反応もまた、ますます厳しいものにしてしまうのです。
受け入れられない他者の姿とは、受け入れられない自分の姿の投影です。
そのため、他者を受け入れる前に本当に自分がすべきことは、自分を受け入れることなのです。
そうしてこそ私たちは自分を尊重できると同時に他者を尊重できるようになり、
自分と他者との間に健全な境界線を引くことができるようになります。
「他者への思いやりを持つためには、まず自分自身への思いやりが必要であることを理解しなければならない。
自分を愛していなかったら、あなたは決して誰も愛することはできない。
自分に親切でなかったら、あなたは誰にも親切にできない。
自分に対してすることを、あなたは他人に対してもする。
自分を嫌っていたら、あなたは他人を嫌う――あなたは自分を嫌うように教育されてきた。
誰もあなたに「自分を愛しなさい!」と言わなかった。
だが、自分自身への愛を知らなかったら、他者に愛を実践することはできない。
あなたは教えられてきた。自分には何の価値もないと。
あらゆる方向から見せつけられ、教え込まれてきた。
自分には価値がない、今の自分はあるべき自分ではない、ありのままの自分では他人から受け容れてもらえないと。
あなたの頭の上にはたくさんの「べき」が覆いかぶさっているが、こうした「べき」はほとんど実現不可能だ。
そしてそれらを実現できない時、あなたは非難されている感覚を覚える。
自分への深い嫌悪が湧き起こる。
こんなに嫌悪感でいっぱいなのに、どうして他人を愛せるだろう? どこに愛を見つけられるというのだろう?
だからあなたは仮面をかぶる。自分が愛しているかのように見せかける。
深い部分で、あなたは誰も愛していない。愛せない。
こうした見せかけも数日間は持つだろう。しかしやがてその色があせてくると、現実が姿を表す。
全世界の人々が愛について語り、愛の歌をうたっている……。
でも、これほど愛のない場所が他にあるだろうか?
ほんのひとかけらの愛もない――なのに言葉だけは山のようにある。
愛に関するの詩は山脈のようだ。
こうした詩はみな代償にすぎないのではないか。
私たちは愛することができないために、なんとか詩を通じて、歌を通じて、自分は愛していると思い込もうとする。
人生に見出せなかったものを詩に込める。人生で得られなかったものを、私たちは映画に盛り込み、小説に描く。
愛はどこにも見当たらない。
なぜなら、最初の一歩を踏み出していないからだ。
最初の一歩とは、自分をあるがままに受け容れることだ。
すべての「べき」を捨てなさい。
自分のハートに「ねばならない」を押し付けないことだ!
あなたは誰かになる必要はない。
あなた本来のものではないものを求められてはいない。
自分自身でいればいいだけだ。リラックスして自分自身でいなさい。
自分の個性に敬意を払い、自分自身の署名をする勇気を持ちなさい。他人の署名を真似していてはいけない。
あなたはイエスやブッダになるよう期待されていない。
あなたはただ自分自身になることを求められている。
幸いなことにイエスはアブラハムやモーゼのようになろうとしなかった。だからこそ彼はイエスになった。
幸いなことにブッダはけっして昔日の聖人のようになろうとしなかった。だからこそ彼はブッダになった。
バラが美しく花を咲かせるのは、バラが蓮になろうとしていないからだ。
そして蓮がこれほど美しく花を咲かせるのは、蓮が他の花々についての神話を耳にしていないからだ。
自然界のあらゆるものが美しい調和に満ちている。
それは誰一人、誰かと競争しようとせず、誰一人、他の誰かになろうとはしていないからだ。
すべてのものがあるがままにある。
要点はこれだ! 自分自身でいなさい。
何をしようと、あなたはあなた以外の何者にもなれないことを忘れないこと。
ただ自分自身でいるべきだ。
Osho, A Sudden Clash of Thunderより
この世に完璧な人などいない。よく聞く言葉です。
でも私たちは無意識のうちに完全であろう、完璧にしようと思いがちではないでしょうか?
他人と自分を比較し、他人の美点から自分を裁いてはいないでしょうか?
羨望は、自分に無いものを他者が持っていると信じる時に生まれます。
怒りや失望は、自分に無いと信じているものを他者が与えてくれなかったと感じた時に生じます。
しかし、あるがままの自分を認めた時、それらの感情の一切は幻想から生じたものであることがわかります。
そうして初めて私たちは、羨望からも失望からも解放されて、あるがままの他者を受け入れることができるようになります。
そして彼ら彼女らも自分と全く同じなのだという心からの実感が、自己尊重と他者理解につながります。
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